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私の履歴書(前編:合格から独立3年目)

みなさんこんにちは。
司法書士の村山澄江と申します。

1979年生まれ愛知県出身、現在は千代田区に事務所を置いております。

司法書士の世界に入った当初は、目標もなく、独立の意思もなく、事務所選びもずっこけました。
仕事も生活も紆余曲折がありましたが、今は心に決めたミッションを持って仕事をしています。
どのように思考や行動が変化していったのか、私の経験がどなたかの役に立てたら嬉しいです。

まずは、私がどれだけ情報弱者だったのかをお伝えしますね!

司法書士を知る

司法書士という資格を知ったのは、20歳の大学生協でした。
街の法律家という文言に「なんかカッコいい」と思い、1年合格が可能であること、平均年収が1400万円であることなどを真に受けて勉強することにしました。

しかし人生そんなに甘くない。
一発合格はできず、なんとか3回目の受験で合格。23歳でした。

初めての就職

私の親は高卒で、町役場で働いていました。親戚もみんな愛知県内から出たことがなく、会社員か主婦しかいません。「自営業」というものが世の中に存在することを知らなかったのです(一般常識の欠乏)。
当然、どこかに就職する以外の選択肢を知りませんでした。

最初に入った事務所は、いわゆる決済事務所で、20名ほどの事務所でした。当時の求人探しは、司法書士会館においてある求人プリントを見に行くアナログスタイルでした。
どの事務所も大差ないのだろうと思っていた私は、取扱業務、勤務時間、給与、何も調べずに面接を受けてしまいました。

この事務所は分業体制でした。建売業者さんと提携していたため、業者が土地を仕入れ、分筆し、家を建て、ローンを組んで売る、という内容がメイン。ルーティーンの仕事を覚えるまでは毎日が楽しかったのですが、ひととおり覚えてからは、全体像が見えないジレンマに悩み始めました。

書類の受け取りや事務仕事など、司法書士の資格が不要な作業しかやらせてもらえないことに悶々とする日々。

やがて、「ここにいたら成長出来ないかもしれない」という恐怖が襲ってきて、ボスに退職の意思を告げました。今、当時の時給をあらためて計算してみたら600円でした。調べなかった私が悪いんです。

次の事務所

次の事務所は上野の小規模事務所です。ボスと私をいれて3名、任意売却メインの事務所でした。分業じゃないので最初から最後まで関わることができたことにやりがいを感じていました。

事務所に勤めながらも、個人案件を受けていいスタイル(歩合として事務所に7割、個人で3割)だったので、この頃から少しずつ、交流会なるものにも顔を出すようになりました。
正直ハズレの交流会も多かったのですが、いい出会いもありました。新人の頃は知ってもらうことが大事、と割り切ってもいいかもしれません。

前述のとおり、自営業のやり方を知らなかった人間なので、独立願望がなく、長い期間勤務司法書士として過ごしました。2つ目の事務所への応募理由は通勤のしやすさのみで、またしてもほかの事務所を調べなかったため、初任給が他の事務所に勤めた友人より15万円ほど低かったことを知るのは独立してからのこととなります。

ここまで読んで「バカじゃん?」と思った方、正解です。
就職するときはしっかりリサーチしましょう。今はネットでも細かい情報が得られる時代です。

転機

結婚しました(唐突に)。
ほどなく、配偶者の病気が発覚し、寝たきり状態に。トータル3年超の看病生活となりました。

結婚後すぐに配偶者の給与がなくなったので、二人分の生活費を背負うことになり、日に日に貧乏になっていきました。

勤務して7年目のある日、ボスから「あんたの電話、うるさい。出ていけば?」と言われました。
単細胞な私は、ボスが太鼓判を押してくれたのだと勘違いして、すぐに出ていくことに。本当に私が鬱陶しかっただけ、ということは後日教えてもらいました。

ビルのオーナーから、「1部屋空いたから入りますか?」と言われて、素直に借りることにしました。独立一歩目の事務所は、無邪気にボスと同じビルの上層階。今思えば、こういうところが鬱陶しかったのでしょう。

こんな行き当たりばったりな独立経緯だったので、準備期間ゼロ日です。

当然ボスのお客様とは連絡がとれないので知り合いもゼロ。
配偶者はほぼ寝たきりという丸腰状態で独立開業という大海原に飛び出してしまいました。

ここまで読んで、「バカじゃん?」と思った方、正解です。
独立準備はお早目に。私のようになるでないよ…。

転機2

離婚しました。精神的、経済的にも限界となり、預金残高2万円になった時点で一人暮らしに戻りました。

ブログを始める

少し時間を戻します。配偶者が寝たきりになってしまってから、つらい日々が続いていました。
家に帰ると気持ちが落ちてしまうので、気分転換のためにブログを書き始めました。

『コムスメ司法書士の日常』というタイトルです。

気分転換のためのブログなので、仕事のことは書かない、というルールを決めていました。人間、ストレスがたまると「う〇こ」とか言いたくなるじゃないですか。よって、NGワードが頻出するブログとなり、界隈でちょっとだけ噂になってしまい、謎に読者が増え、友達がモリモリできていきました。

こんな私の友達になってくれたそこのあなた、ありがとうございます。ブログ経由でできた友達が紹介してくれた人たちが今は仕事仲間だったりします。

独立直後

独立直後は暇でした。暇なので、平日に中高年に混ざって市民講座のヒップホップダンスを習いにいっていました。おかげでインドの踊りのように首を左右に動かせるようになりましたが、仕事で役立つ場面はいまだにありません。

独立3年目

お客様がお客様を紹介してくださったり、ブログ仲間からいろいろな縁がつながったり、なんだか仕事が軌道に乗ってきました。また、成年後見の本を出版させてもらったり、取材をしてもらったり、少しずつ専門性が出てくるようになりました。

【執筆者紹介】

司法書士 村山澄江(むらやま・すみえ)
認知症サポーター、経営心理士、承継寄付診断士

司法書士村山澄江事務所(東京都千代田区外神田2丁目18番5号光洋ビル3F)代表
公益社団法人成年後見センター・リーガルサポート会員
簡裁訴訟代理関係業務認定会員

介護や相続の『まさか』をなくすことがミッション。おばあちゃんこだったことがきっかけで、高齢者家族のサポートに注力。
・1979年名古屋生まれ
・2003年司法書士試験合格
・2010年独立開業
・2018年「AI相続®︎」(みなと相続コンシェル)の立ち上げに参画、2022年取締役に就任
・2019年日経xwomanTerrace(日経BP社)アンバサダー1期就任
・2020年株式会社エラン(東証プライム上場)「キクミミ」監修者に就任
・2022年株式会社NTTデータ・スマートソーシング運営『HOME4Uオーナーズ』記事監修開始
・2023年経済産業省『OPENCAREPROJECT』発足に参画
・認知症対策の相談数1500件以上
・家族信託・成年後見の専門家として活動中

メディア掲載等
・日本経済新聞・日経ヴェリタス・読売新聞・朝日新聞
・中央経済社「旬刊経理情報」
・早稲田学報
・週刊現代
・週刊エコノミスト etc. 

書籍
・「今日から成年後見人になりました」自由国民社
・「認知症に備える」自由国民社

講演
・各自治体、ハウスメーカー、生命保険会社、不動産会社、介護事業所、教会などで延べ3000名以上へ講演

YouTubeチャンネル
・介護する家族を応援する『ゆるっとかいご』2020年開始、登録者17,000名

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